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 「努力のプロセスを評価してもらおうなどというのは甘えである」

 これは私の持論であり、意外と真理をついた好きな言葉でもある。しばしば、「残念だったけどよく頑張ったよ」などという言葉を耳にする。人から言われる分には耳当たりの良い言葉だ。だが、当の本人がそれで良かったのだ、本当にその通りだと考えてしまっては終わり、きっと向上は見込めないのである。結果はどうであれ自分は頑張ったのだからいいだろうというのは単なる甘え。精神を支えるためだけの保険。恥ずべき妥協。少なくとも私には結果を伴わなかった愚者の言い訳にしか聞こえない。自分なりに頑張った?成功した人はもっと頑張ったのでは。あれほど時間を割いたのに?時間の使い方が悪かったのか。先天的な問題?最初から自分の中であきらめていた節があったということか。そのような言い訳を並べたところで結局は結果を出したものの才や努力には及ばなかったということだ。簡単なことである。結果が伴わなければただただ大いに反省すべきものなのである。そこに自己満足・不可解な陶酔の活路を見出すことは何の価値ももたない。
 私は現実主義者であり、結果論者でもある。基本的に過程を見ることはしない。「結果」の大きさを前にして「過程」は微々たるもの、言ってしまえば無であるからだ。よく、そんな暴論を・・・などと反駁を受ける。だが、考えてみて欲しい。この世の中は因果と応報にて成り立っている。原因があるから結果がある。逆の言い方をすれば、結果がついてきたということはそれだけの要因が存在したということ。結果を見ることはすなわち過程をみることにもなるのである。だから私の着眼は過程<結果なのである。
 少し私的な話になってしまうが、私の尊敬する大学教授が解雇された。ここでは彼を師と呼ばせてもらう。師は研究熱心で誰よりも理論に優れ、信念を貫くタイプの人間だった。教師型というより研究者型。そんな師の思いはこうだった。「出来なければ単位は出さない。出来るのであれば単位は出す。」たったこれだけの明快なものである。至極真っ当、反論の余地もない。そして師の講義は大学においても重要な位置づけがなされる「専門分野」だ。だが、大学側の見解はこうだった。「単位を落されて何度も留年する生徒が多く出てきた。なんとか融通・折り合いをつけてもらえないか。」私が学生身分であるがゆえに、その考えもよく理解できる。だが、私の大学では面接も超甘々、専門分野さえできれば入学は簡単。大学側としては、最初から学ばせる気があるのかすら不安に思えてくる。そして少し考えてみよう。師の講義で学生全員が単位を落されているわけではない。私も一度落とされたが、それが悔しくて次期では我ながら優秀な成績で単位を修得した。そこにも結果の重要性は潜んでいた。これでは大学が「できないものはできない。」という意見を助長しているだけに聞こえないだろうか。なんとも情けない話である。専門分野・必修すべき分野であるにも関わらず、できないものはできないという論理がまかり通る。そのような生徒が困るのは、大学を出てからだというのが大学側も予想できないのか。
 そういった生徒やその囲みも、きっと「これだけ頑張ったのに」という心境だろう。はっきり言わせてもらうが、その保身の時点で頑張っていないのは明らか。結果を見れば誰でも理解できる。そして”頑張った”は人からかけてもらう「褒賞言葉」のひとつで、自らの身を守るための「保障言葉」ではない。

文を明確にするため極論もいくつか述べた。冗長な文となってしまったが、私の意見は以上である。

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プロフィール

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Off
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26
性別:
男性
誕生日:
1991/11/28
職業:
ボンタンアメ
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音楽 , VOCALOID , サブカル , ゲーム
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